「英語がデキる人」??

風邪をひいてから新聞・雑誌は溜まる一方である。
頭が朦朧としていると、どうしても「気合を入れて」新聞や雑誌を読めなくなってしまう。溜めてはいけない、と分かってはいるのだが...



この日記を書き始めた一つの理由は、日本のジャーナリズムを追っているだけでは見えてこない世界の流れというものを、海外メディアなどを参考にしながら自分で考え、整理したかったからだ。

海外のジャーナルを読んでいると、日本ではあまり重視されていない事件が実は重要であったり、またその逆であることが分かる。


例えば、今年の夏に起きたイランでの核開発危機は、日本の紙面ではあくまで「国際面」扱いだったが、英・米・仏の新聞では第一面で扱われていた。そしてそれらを読んでいると、なるほどイランの核開発危機は実は世界経済に大きな影響を与える可能性があった事件であり(イランの核開発→中東の政治危機→中東情勢の不安定化→原油価格の高騰→世界経済への影響、という形で)、また「中東」という地域に限定されるパワー・ポリティックスの話ではなく、中国、ロシア、アメリカ、ヨーロッパを巻き込んだ国際政治事件であったこと(そしてその中で日本は取り残されていたこと)がよく分かった。

また海外メディアを読んでいると、時に日本のことが日本の新聞を通してよりもよく分かることがある。最近の『The Economist』誌による日本特集は好例だ。


こう考えると、インターネットで海外メディアを「簡単に」フォローできるようになった今の時代は実に素晴らしい。
そしてこれは余計なお節介かもしれないけど、何でもっと多くの人がそういうことをしないのだろうとも思う。もっと多くの学生が、例えば『The Economist』(別にアングロ・サクソンのメディアでなくたって、Le Monde紙だっていいっすよ)を読むようになれば、より多くの人が「(スクープ)後追い型」の日本メディアにウンザリするのではなかろうか。



畢竟日本の学生の語学力が低い、ということなのだろう。
これは既に多くの人、多くのメディアが言っていることであるし、学生自身よく分かっているはずだ。
そして多くの学生が留学を希望し、そして非常に多くの学生が現にそれを行っている。(英語圏の小国であるニュージーランドの経済を支える産業の一つが"English-teaching industry"であり、日本人はそのカスタマーとして大きな役割を果たしている。)

しかし「英語がデキるようになるために、留学したい!」と学生たちが言うときの、「英語がデキる人」のイメージは一体どういうものだろうか。

それは恐らくガイジンを前にぺらぺらと英語が話せる人であり、ビジネスで英語を使っている人であり、TOEICのスコアが850点以上の人とか、そういうイメージなのだろう。

つまり「英語がデキる人」とは「英語がペラペラな人」を意味している。「英語力」と言われるとき、そこにイメージされる具体的な力とは、すなわち「話す(オーラル)力」である。
これは実際無理もない話で、勿論ビジネスの種類にもよるのだろうが、先日大手商社で働く同期の人間に話を聞いたところ、「ビジネスで求められる英語力とは、発音の良さとか英語が読み込めるということではなくて、現場で意思疎通出来るか否かということだ。」と言っていた。すなわちビジネスで求められているのは、オーラル・パワーなのである。当然、皆「英語を話せるようになりたい!」と思うようになるわけだ。


しかし、果たしてそれでいいのだろうか。
オーラル・パワーばかりが重視されて、「読む力(リテラシー)」を等閑に付して良いのだろうか。



この点に関して、内田樹が的を射たコメントをしている。

「外国語教育の基本はまず『読むこと』であるというのは私の年来の持論である。
インターネットの時代はまるごと文字情報の時代である。だから、外国語の『リテラシー』の差がそのまま情報格差となる。けれども、いまどき外国語教育というと、ほとんどのひとは『オーラル・コミュニケーション』の重要性しか言わない。 
(中略)
『読む』というのは、『ここにいない人』と『好きなときに』コミュニケーションできる方法である。
『ここにいない人』というのは単に地理的に遠くてなかなか会えない人というにとどまらない。原理的に絶対にお会いする機会が得られない人(すなわち死者たち)もそこには含まれている。
『受信しうるメッセージの質と量』に限って言えば、『聴く能力』と『読む能力』では受信できるメッセージの桁が違う。
どう考えても、『まず』リテラシーの涵養から始めるというのがコミュニケーションのコスト・パフォーマンスを考えたら合理的な選択のはずである。」
内田樹 『知に働けば蔵が建つ』pp.276-7 括弧内は内田の注。)

内田が言っているリテラシーの強み、すなわち「読むことが出来る」ことによって得られる情報の質と量は、「聴くことが出来る」ことによって得られるそれの比ではない、という点に僕はもう一つ、リテラシーアドヴァンテージを付け加えたい。

それは、「死者たち」と原語で「直接」コミュニケーション出来る(つまり「読む」こと)喜びである。
同じ例ばかりで恐縮だが、シェークスピアソネットトックヴィルの恋文を原語で読むことには何とも言えぬ快感がある。筆者の言葉を撫でるようなこの感覚は、分かる人には分かるし、分からない人には恐らく全然分からないだろう...

別に分からなくて何かに困るという訳ではない。また、この感覚を得られるからといって、何かが便利になるわけでは全くない。
そもそもこういう「ムダなこと」に相当なエネルギーをつぎ込む人間だから、よく「オカシイ」「キモイ」「キ○ガイ」と言われるのだろう。(確かに大学院まで行って、そういう「ムダなこと」に一定期間でも打ち込める人間は「ちょっとオカシイ...」に決まっている。)



しかし、だ。海外メディアを読んでみることの重要性をどれだけ訴えても、オーラル重視はなくならないだろう。

結局、今の状態で既得権益を持つアクターが多いし、何よりそっちの方が勉強する当人にとってはラクだから。

例えば留学斡旋業者、TOEFL・TOEIC対策塾、アルクのような出版社、そして日本のメディアなどが、「英語が出来ない学生が多い」という事実と「オーラル能力」に重きを置く「英語がデキる人」イデオロギーから多大な利益を得ている。(もし、僕たち日本人が海外メディアをもっと活用出来るようになれば、日本のメディアは恐らく海外メディアのレベルの高さに大敗するから。ちなみに「大敗=絶滅」とは考えていない。)


そして単語帳をウンウン言いながら作って、「クソォォォ、この文章読めねぇよ!!!」と何度も本を机や窓に叩きつけることよりも、「日常生活で英語のシャワーに浴びる」方が遥かにラクである。しかもそれだけで世間では「英語がデキる人間」とされるのだから尚更である。



一年留学すれば、確かに意思疎通出来る語学力は身につけられる。しかも様々な経験をするから、人間的に大きくなった様な気もする。しかし、1年留学しても留学先の言語で小説も読めなければ新聞・雑誌も読めない人を僕は沢山知っている。「そんなことありません!読めますよーだ!!」とムキになる人が実は一番あやしい。そして何より僕自身がそうだった。こういう人たちはまぁ世間的には「英語がデキる人間」なのだろうが、僕は全然そう思わない。


「性格悪いね」と言われるかもしれない。しかし、まぁbotticelliは所詮その程度の男だ。