アメリカへの憧れ

高校時代、アメリカに対して強い憧れがあった。

その憧れはハリウッド映画に支えられていたし、自分の身の周りの日本社会への軽蔑に裏打ちされていた。ハリウッド映画に見られたあの単純で楽観的な人生観と、何となく自由な雰囲気、そして美しい金髪女性たち(僕はダークな髪も好きだが...)。そういったものに憧れていた。一方で「たまごっち」「ルースソックス」「キティーちゃん」が流行る日本(の女子高生たち+そういった女の子たちに人気があった男ども)に辟易していた。もう明らかなことだが、要はそういった流行についていけない自分は相手にされない気がして、苛立っていたのだ。僕の軽蔑など、その程度のものだったのだろう。


その時、僕のアメリカへの憧れ、アメリカ好きというのは「自分自身」の嗜好だと思っていたが、先日岩井克人の『会社はこれからどうなるのか』(平凡社 2003年)という良書を読んではっとした。僕は日本を軽蔑するように「させられていて」、アメリカを憧れるように「させられていた」のではないか、と。

つまり僕が中・高校生活を送っていた1990年代は、まさにアメリカの株主主権的経営スタイルが賞賛され、IT産業の重要性が謳われていた時期だった。それと同時に日本は不況に苦しんでおり、日本型経営や日本型経済への批判が大変盛んなときでもあったのだ。さらに、今振り返ると、キティーちゃんやルースソックス、ブランドものを求める高校生に対して、メディアは暗に「どうしようもない高校生たち」というスポットライトの当て方をしていたように思われる。かくして僕は無意識のうちにアメリカへの憧れを強めるようになったのではないか。

メディアの力はやっぱりスゴイ...

今の留学希望者の派遣希望先は、どこなのだろう。やっぱりアメリカが第一志望、というケースがおおいのだろうか。誰か教えてください。

しかし動機は何であれ、1年間アメリカで過ごせたことは本当に良かった。そこで自分自身をcultivateしていく様々なきっかけを手にすることが出来たから。



僕は、人間というのはその時代の言説や日常生活のあらゆるところに存在する様々な権力によって形作られている、ということを強調したい訳ではない。

200年前の音楽を200年前の人が聴いたように僕たちが聴くことは出来ない。しかし、僕たちには耳があり、音楽を聴くことが出来るからこそ、そこに限りなく近付くことが可能なのだ。そしてその「近付き」という試みこそが重要だ、ということを僕は言いたかった。

古典についても同じことが言える。トックヴィルの『アメリカにおけるデモクラシー』をトックヴィルが書いたように読むことは不可能だ。(当たり前だが。もちろん、彼が持っていた多くの意図の幾つかを特定することは可能だろう。)

しかし「トックヴィルさん、これはどういうことですか」と近付こうとすることによって初めて僕たちは、自分とトックヴィルの間にある決定的な断絶と、驚くべき共通性を見出すことが出来る。そして、この絶対identifyすることが不可能な相手と自分の間にある距離感をつかむことによって、自分の立ち位置、ひいては「自分自身」というものが見えてくる。あるいは形作られていく。僕はそう思う。
さらに、そこに勉強の面白さはあると思う。こう書くと、勉強はなんだか「自分探しの旅」的な大変楽しい営為のように思われるかもしれない。でも、僕が思うにやっぱりこの場合の「勉強」も「勉むを強いる」ものなのだ。そもそも「自分探し」は楽しいかもしれないが、同時にとてもキツイものである。

僕が、研究者として成功出来る人間は、きっと企業においても成功する、と思うのはこういう考えに基いている。

勉強も、人間関係、恋愛、そして結婚と似ているのだ。順序を逆にしてもいい。人間関係、恋愛・結婚は、勉強と似ているのだ。当たり前のことを長々とすまない。

小林秀雄は「女は男の学校である」と言っていたらしい。知識云々ということではないだろう。