ホワイトカラーとブルカラー

昨日半年ぶりにAさんに会う。今年の3月に、Aさんは妹さんとの卒業旅行中にオックスフォードまで遊びに来てくれたのだが、会うたびに色々なことを教えてくれる。
これは自慢だが(そして唯一胸を張って誇れることだが)、僕にはこういう友人が多い。本当に有り難いことである。



9月14日の日記に、選挙期間中の社民党の訴え(「小泉改革は弱者切り捨てです!」)にリアリティを感じた、と書いた。それは、内田樹森永卓郎の本を読んで、彼らの主張には説得力があると思ったからだ。ただ、僕はブルジョワ家庭で生まれ、ブルジョワな生活(例えば私立高校と私立大学に通ったこと)をしてきたので、所詮僕の人間関係も視野も、ブルジョワドミナントである。

つまり、そんな僕が感じる格差社会出現のリアリティなど、「本から知ったものに過ぎない」という点で表面的なものだ。
しかしAさんは、通勤バスの窓から見える風景や仕事をしているなかで、格差社会の出現が肌で感じられる、と言っていた。


「エリート(ホワイトカラー)」と「非エリート(ブルーカラー)」の二極化社会の出現。
それはもう始まっている。「総中流」と言われていた社会から「二極化社会」への移行は、日本においてどういう様相をおびるのか。


それは「(精神的)『余裕』がない時代」の始まりである。 
それはつまりこういうことである。

二極化に伴い、中流階級出身の人間はブルカラーに落ちることをひどく恐れるため(そしてその恐怖感に支えられて上昇志向、というか金稼ぎ志向が強くなるため)、大学ではとにかく就職において有利になるよう「資格」取得(それは「留学」も含まれるし、「資格としての運動部活動」ということで部活動も含まれる)に多大な時間が注ぎこまれるようになる。しかも、グローバル化と企業間の競争激化、産業構造の変態によって、「就職出来ればどこでもとりあえずはいい」という考え方は後退し、就職希望対象の企業はより限定されていく。

それによって、既に大学は就職予備校の要素が強いものの、今後さらにその傾向は強くなるだろう。そこでは、業界研究の本やハウツー本を手にした学生が溢れかえり、「トックヴィルって何か面白いよね」などと言う学生はさらに減っていく。

この流れは大学以下の教育機関にも影響を及ぼす。
象徴的な話を二つ書こう。  


Aさんが通っていたT山高校は進学校だったが、進学率が悪い「ヘンな」学校だった。そこにはマニアックな先生が多く、生徒も好きなことにエネルギーを注げたようだ。明らかなことだが、それは決してその学校を強い進学校にはしない。しかし、Aさんいわく、T山高校は非常に面白いところだった。

それが最近あのI知事の意向で、T山高校を強い進学校にするため、教員のリストラが強行されたのだ。
こういったことは様々な高校で今後もっと起きるに違いない。高校は生徒を有名(「優良」)大学に入れてなんぼのもの、という考え方が支配的になってくる。「余裕」はなくなってきているのだ。


もう一つの話は、僕とAさんが高校時代御世話になったロータリー倶楽部青少年交換プログラムへの応募者数の激減についてである。
6年前、20人弱の枠に約100人の応募があったが、最近は10人強の枠に20人程度しか応募がないらしい。これは様々な原因が考えられるが、恐らく一つの重要な理由は、この青少年交換プログラムの特徴を人が「大き過ぎるリスク」と考えるようになったからである。

このプログラムの特徴とは、学生の個人的利益の追求(「語学力をつけたい」とか)をサポートするのではなく、国際的相互理解や国際平和を実現するために学生を親善大使として海外に派遣するため、学生の派遣希望先を一応聞いてはくれるものの、必ずしも自分の希望先には行けない、という点である。

皆、「将来(自己実現≒就職)のために」ということで英語圏に派遣されたい訳だが、東南アジア、ヨーロッパ、南米などに派遣される可能性も大きい。今、僕たちはなかなかその可能性というものを「そういう留学もまた面白いじゃないか」と思うことが出来ないのである。「余裕」がないのである。


僕が「余裕がない時代」という言葉で表したいのはこういうことである。
とにかく転落しないよう、とにかく上昇して行くよう、出来るだけ早い段階から準備を始め、「スキル」の習得を目指すことが強要される時代である。



僕は必ずしも二極化の社会が余裕のない社会をもたらすとは思わない。何故ならイギリス社会は典型的な二極化社会だが、「上」の極、つまりエリート層のなかでは流動性が確保されているからだ。この場合の流動性とはつまり、極端な例で言えば、大学では哲学あるいは古代ギリシア・ラテン文学を勉強したが、卒業後は銀行で働く者もいれば、コンサルタントとして働く者もいる、そういうことが可能であるということだ。近代史学部を出て、法律家になる人間も多い。また、パブで政治や思想を論じる学生も多い。
(ただ、イギリスでも当然会社に入れば、皆大きなプレッシャーと闘っており、ストレスフルな社会であることには変わりない。)

果たして日本で二極化が進んだら、こういった流動性を確保した社会になるのだろうか。 

今現在の状況を鑑みるに、その可能性は極めて低い気がする。



では僕たちはどうするのか。二極化は避けられないもののように思える。このまま全員が沈む船のなかで溺死するわけにはいかない。強い大企業は常に労働者や「外部」(発展途上国や自然環境)を搾取し続けている、という訳ではない。雇用創出や税金を納めることによって、社会貢献している側面もある。

政権は「第三の道」(新自由主義社民主義の折衷)を行く前に、まず「第二の道」(新自由主義)を行け、という主張にも確かに一理ある。

http://www.mainichi-msn.co.jp/keizai/tamaki/news/20050918ddm008070161000c.html

(でもこの場合、その選択に伴う日本特有の問題も玉置氏には考えてもらいたい)


そもそも社民体制のドイツがあれだけ悲惨な状況にあり、フランスもまた改革に迫られている様子を見るに、日本にとって残されている選択肢、あるいは参考に出来るモデルは少ない。

http://www.guardian.co.uk/germany/article/0,2763,1570297,00.html

(ここで僕は北欧国家が何を日本に教えてくれるか、ということを知りたい。良い文献があれば是非教えていただきたい。)



これが僕が持つ見通しである。はっきり言って、穴だらけの見通しだ。現実を単純化し過ぎていると思うし、論理の飛躍も多い。色々批判されるべきだと思う。

また、これまで書いてきたことは机上の論理に過ぎぬものだ。

それでは何が大事かと言えば、恐らくこの見通しを頭の片隅に置きながら、日常生活を一生懸命大切に生きるということだろう。「この社会の未来」という空論めいたものに振り回されるのは良くない。

公的事柄に参与する上でも、人は健全な私生活と確固たる日常生活の上に立っていなければならない。抽象的な言い方だが、今の僕にはそれ以外の表現方法が思いつかない。


自分の感覚・知性を磨いて、自分と家族と友を大切にすること。


僕は、公の事柄に人は無関心でいるべきだ、と言っているのではない。むしろ、そういった事柄に健全にアプローチする上で、上に書いたことは極めて、極めて重要である、とそう言いたいのだ。


当たり前のことを、長々とすまない。



余談だが、アレックシ・ド・トックヴィルも健全な家庭の重要性を訴えていた。あのindividualismeを批判したトックヴィルさんが、である。