「三菱商事は困らないわけです」

三菱商事(会社)は困らない。そんなこと村上春樹に言われるまでもないかもしれない。

面白いのは、小説家ではなく、翻訳家としての自分こそ、かけがえのない存在という実感がある、というところだ。それは、小説を書くのは自分ひとりの問題だけど、翻訳では原作者の世界と読者たちをつなぐ、という責任を抱えているからである。
こういう意識的無意識的に「人と世界をつなごうとしている、つながろうとしている自分(主人公)」という感覚は、村上春樹の小説にも通底している。


『あともうひとつ僕が言いたいのは、非常に不思議なことで、僕もまだ自分のなかでよく説明できないんですけど、「自分がかけがえのある人間かどうか」という命題があるわけです。たとえば、皆さんが学校を出て三菱商事に入って、南米からエビの輸入をする仕事をするとします。それで非常に一生懸命やるんだけども、じゃあ、かけがえないかというと、かけがえはあるんですよね。もし病気で長期療養したら、別な人がそのエビの取引の位置について、一生懸命あなたの代わりにやるわけです。それで三菱商事が、たとえば皆さんが二年間病気になって困るかというと、困らないわけです。というのは別の人を連れてきて同じ仕事をやらせるわけだから。だから、あなたほどうまくやれないかもしれないけど、三菱商事が困るほどのことはないですね。

ということは、いくら一生懸命やってもかけがえはあるわけですよね。というのは、逆に言えば、会社はかけがえのない人に来られると困っちゃうわけです。誰かが急にいなくなって、それで三菱商事が潰れちゃうと大変だから。その対極にあるのが小説家なわけです。ところが小説家に、たとえば僕にかけがえがないかというと、かけがえはあるんです。というのは僕が今ここで死んじゃって、日本の文学界が明日から大混乱をきたすかというと、そんなことはないんです。なしでやっていくんですよ。全く逆の意味だけど、かけがえがないというわけではない。

(中略)

でもね、僕が翻訳をやっているときは、自分がかけがえがないと感じるのね、不思議に。

(中略)

なぜだろうと、それについて最近考えてみたんだけど、結局、毅然たるテキストがあって、読者がいて、間に仲介者である僕がいるという、その三位一体みたいな世界があるんですよね。僕以外にカーヴァーを訳せる人がいっぱいいるし、あるいは僕以外にフィッツジェラルドを訳せる人もいる。しかし僕が訳すようには訳せないはずだと、そう確信する瞬間があるんです。かけがえがないというふうに、自分では感じちゃうんですよね。一種の幻想なんだけど。

(中略)

僕がぱたっと死んじゃって、小説が途中で終わってしまった。それは悔しいと思いますよ。でももしそうなったとしても、誰に対しても責任はないですよね。結局は自分一人のことだから。でも翻訳はとても小さな世界なんだけど、自分が何かの一翼を担っているという感触がきちっとあるんですね。誰かと何かと、確実に結びついているという。そしてその結びつき方はときとして「かけがえない」ものもあるわけです。少なくとも僕にとっては。』

『翻訳夜話』(2000年)より。